3/16(土)⑤ 工事中🚧 カラスの鳴かない日はあっても、女工が諏訪湖すわこに飛び込まない日がない」
工事中🚧
1 『あゝ 野麦峠 のむぎとうげ 』が読みたくなって
最近、『あゝ野麦峠』(山本茂美 著)を読ませてもらっています。先月に信州旅行に行っていた時に急にこの本が読みたくなりまして。
明治・大正というと華やかなイメージがありますが、その一方で犠牲になった人も大勢いたという事がこの『あゝ野麦峠』でもよくわかります。今日から3回にわたって諏訪湖の女工さんのお話をしたいと思います。
第一回は女工さん達の暮らしぶりや労働内容について。
2 必死に働いた女工達
今は 廃 すたれてしまいましたが、明治・大正時代の日本の主要産業は 紡績業 ぼうせきぎょうと製糸業でした。とりわけ日本の生糸(蚕の糸)は海外でも非常に評価されました。まさに日本の近代化に大きく 貢献 こうけんしたのですが、その製糸工場ではたくさんの女工さんが働いていました。(なんと13才くらいの少女も!)
どんな仕事かというと、 蚕 かいこから糸を取り出すという細かくて大変な仕事だったそうです。くわしくはこちらのサイトを。↓
http://www.okaya-museum.jp/material/index03.html
釜 かまのなかは180度の熱湯で、室内温度は 華氏 かし80度(27度くらい。)を軽く 越 こえていたそうです。今みたいにクーラーもなかったところで働いていたのです。しかも周囲はさなぎの 悪臭 あくしゅうも 漂 ただよっていたそうです。
それで女工さんが具合が悪いから休ませてくれといえば、検番(現場 監督 かんとく)にビンタを食らうばかりで、休ませてくれません。無理がたたって, 結核 けっかくだとかいろいろと病気にかかってしまった女工達も少なくなかったそうです・・・
3 逃 に げ場のない女工さん達
製糸工場は今風に言えばブラック会社そのものでした。今みたいに社会保障も労働三権もなかった時代だし、女工さん達には、 婚活 こんかつや起業、転職などの 選択肢 せんたくしがあるはずもありません。当時の女工さん達は口減らしのためだとか、貧しい実家の家計を助けるためだとか、諸事情があってやめるにやめられない 状況 じょうきょうだったのです・・・
女工さんの出身地は 飛騨 ひだが多かったのです。今でこそ飛騨(高山)と言えば観光地として名高く、国内のみならず外国人の観光客も来ます。
けれど、当時の飛騨はこれといった産業もない貧しいところでした。だから、女工さんが工場から持ち帰る給料を当てにしていました。
だから、女工さんが仮に飛騨まで 逃 にげ帰ったとしても「根性がない」と言われ、白い目で見られるのが関の山。また、 口減 くちべらしのために 娘 むすめを工場へやった家族にとって、娘が突然帰ってくるのは非常に困るのです。
4 湖に身を投げた女工達
工場で検番にどやされるのも地獄、逃げるのも 地獄 じごく。そんな追い 詰 つめられた女工さん達は湖や川に身を投げたそうです。彼女達は着物の 袂 たもとに石をいくつも入れました。自分の死体が 浮 うかび上がらないために。
「カラスの鳴かない日はあっても、女工が 諏訪湖 すわこ に飛び込まない日がない」といわれるほど、自殺者が多かったのです・・・
時々、諏訪湖や川から女工さんの水死体が浮かび上がる事も、川沿いにある工場の水車に水死体が引っかかることもあったそうです。
その女工さんの水死体を 火葬 かそうするのですが、早く焼くために水死体をなんとに三人で竹やりで腹の辺りを何度も 突 ついて 水気 みずけをだして、それから火葬したそうです。死体をさらに竹やりで突くなんてムゴイ話ですhttp://common.blogimg.jp/emoji/108411.gif
http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1519099.html
(次回の記事)
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